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6月7日(土) 我が半生その25

●大学時代2 KAWAIピアノ●名古屋での生活が始まり最初にしたことは学校へ行くより信貴勲次さんを訪ねたことです。信貴さんは歯学部の学生で兄の友人で、前年のYAMAHAライトミュージックコンテストで個人賞をもらったトランペッターです。後に入部することになるライトパープルジャズテットの部室を訪ねたのですが、そこにはピアノがなかったのです。そこでその頃大学対抗バンド合戦で優勝していたフルバンドのシンギングオールスターズの練習場へ行きました。信貴さんが 「酒とバラの日々」はできるかということで一緒に演奏しました。高校時代からバンドでよく演奏していたおなじみの曲なので一応形を整えることはできました。新入生でいきなりバッキングもソロもできたので信貴さんはじめ先輩方はかなり驚いたようです。私はフルバンドではなくてコンボをやりたかったのでライトパープルジャズテットへ入りました。ピアノがないのでしばらくの間はすでにあったビブラフォンを弾いていました。高校時代にジャズを志した時にビブラフォンを希望したのが思わぬ形で実現したのです。新入生歓迎コンサートが開かれることになり、何か変ですが、私は新入生なのにそれにさっそく出演させてもらいました。もちろんビブラフォン担当でです。その頃流行っていたハービーマンの「メンフィスアンダーグラウンド」をキーDで演奏したのをよく覚えています。その頃の学生バンドはコンサートやパーティでの演奏のアルバイトが結構ありライトパープルジャズテットでもよくいきました。信貴さんのネームバリューと人気でいいギャラがもらえたようです。そしてクラブでピアノを買ってくれたのです。KAWAIのpialinaというもので今はもう製造していないようです。回りの木はベニア板ですが、ちゃんと弦を張った打弦式のものなのでタッチもアップライトに近いのです。生でも弦の音が聞こえ内蔵マイクで大きくすることもできます。これはそんなに重くないのでその後ピアノがない場所でのコンサートや仕事で大活躍しました。それとは当然別のものですが同じ種類のpialinaを開業してしばらくした昭和59年に買いました。20年以上経った今でも狭い院長室に鎮座しています。これでいつも練習している私の愛機です。名古屋での音楽生活はこうして順調に始まったかのようですが、そうは問屋はおろしません。まだまだこれから続きます・・・・・・・・

我が愛機




pialina



7月10日(火) 我が半生その24

●大学時代1●生まれて初めて自分で買った高価な買い物はYAMAHAのアップライトピアノ「M1A」です。YAMAHAのラインナップの中でも一番小さいピアノですが、ちゃんと88鍵あります。ちょうど20万円で10万円は酒粕踏みのバイトで稼いだお金を当て、残りは親に甘えました。このピアノは色んな変遷を経て、35年後の今はベースの西川サトシ氏の家で大切に使ってもらっています。音楽学校に行く訳でもないのに新品のピアノを持って一人住まいをするなんて、親の脛かじりのくせに贅沢な子供でした。ピアノを弾くとなると普通の学生向きのアパートでは無理です。そこで兄が好都合な家を見つけてきてくれました。そこは桃巌寺という禅宗の有名なお寺の墓場の隣にあるのでした。大家さんの母屋があり、その大きい敷地の隅に一軒家というか離れが私の新居になりました。玄関の引き戸を開けると6畳の和室があり奥に4畳の板の間の台所がありました。風呂はもちろんなく、トイレは大家さんが経営する同じ敷地内のアパートまで25mは歩いて行かねばならなかったのです。一軒家といえば聞こえはいいのですが、実際は小屋のようなものでした。裏が墓場というより墓場の裏にこれから7年間住むことになったのです。深夜はだめですが昼間はピアノを弾いても文句を言われることもなく音楽生活には絶好でした。この家は築何年かわかりませんがかなり古く立て付けも悪くて隙間だらけでした。夏はいいのですが、冬は隙間風が入って来て石油ストーブをガンガン焚いても換気の必要はないくらいでした。あまり寒い日はセーターを着て寝たこともありました。大雪が降った時は朝起きると顔にうっすらと雪が積もっていました。でも真南向きなので日当りは良くて春の長閑な日には昼寝をするのに最適で、墓場の裏ですからもちろん静かで考えようによっては最高の住環境といえるでしょう。この「本山の下宿」にはこれから色んな人が訪れ、色んな事件がおきます。そのことはまた少しずつということで・・・・・こうして波乱の大学生活が始まったのです。





6月7日(木) 我が半生 その23

●高校時代10● 卒業から名古屋に行くまでに一ヶ月の休みがありました。開放感から遊びたかったのですが、遊びは高校4年間で十分したのでアルバイトをしました。趣味と実益を考えれば夜にどこかの店にピアノを弾きにいけば良かったのですが、それは選択しませんでした。家の近くに「長龍」という作り酒屋さんがあってそこへ「粕踏み」のアルバイトに行ったのです。「長龍」では酒造でできた酒粕を使って、奈良漬けの元になる糠床の様な物を作っていました。八尾飛行場の近くにある酒蔵に酒粕を運び、薄暗い倉の中で高さ4mくらいのタンクの中に入ってただひたすら酒粕を踏むのです。いわば単純肉体労働です。酒粕に水をかけて湿らせ弾性が出るようにただひたすら踏むのです。中腰の姿勢を一日続けるのですから、19才の青年といえどもかなりきつい作業でした。腰痛は若さでなんとか辛抱できましたが、酒粕を一日浴びているのですから酒焼けして一週間でアル中のおじさんのように真っ赤な顔になってしまいました。一緒に働いていたのは四国からきた季節労働者の人たちで、酒粕を踏みながら色んな話を聞くのが面白かったです。年齢もバラバラで20代から50代の人たちでした。ある年配の人が「昔朝鮮半島には白いカラスがいて自分は見たことがある」とか「徳島の山の中には四、六のガマガエルが本当にいる」とかの話をするので皆にからかわれていました。 酒粕踏みに行っていたのは私だけではなく、一浪していたS君、同時に卒業したK君、H君の4人でした。季節労働者の人達は長龍の寮で寝泊まりしていて、仲良くなってくると夜の麻雀に誘われました。ある夜その寮に行くと「タコ部屋」とはいえないでもかなりの所で集団生活をしているのでした。そして押し入れから「サントリーレッド」と「さきいか」を出して歓待してくれました。おもむろに麻雀が始まったのですが、我々4人は皆麻雀は学校をさぼって鍛えていましたから、この労働者の人達は赤子の手を捻るようなものです。もちろん「積み込み」や「通し」等のインチキをしてお酒だけではなくかなり巻き上げました。今から思えばかなりあこぎな真似をしたもんです。善良な田舎の人から季節労働の給料の一部を搾取したのですから。 それは別として4週間で13万円の収入を得たのです。ピアノを弾いてではなくちゃんと額に汗して得た初めてのお金です。そしてその内の10万円を元にアップライトのピアノを買ったのです。そのピアノの顛末は次回といくことで・・・

なるほどよい酒




美味しいです



5月5日(土) 我が半生 その22

●高校時代9● 目出たく名古屋の愛知学院大学への進学が決まったのですが、高校を卒業しなければ大学には入学できません。高校には結局4年在籍したのですが、出席日数は3年分くらいで単位もギリギリだったでしょう。しかしなんとかお世話になった我が高津高校の晴れの卒業式を迎えたのです。高津高校は60年安保の時も大学生に混じってデモに参加したらしく校訓の「自由と創造」が表すようにイデオロギー的には左翼の人が多かったです。私の高校時代はまさに1960年代後半、高度経済成長の裏で学生による第二次反安保闘争が激化していったのです。1969年(昭和44年)1月18日、19日には全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件、東大安田講堂攻防戦がありました。そして翌年には自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した三島由紀夫の事件があり、多感な高校生としては様々なことに思いを巡らせていました。同級生にも当然そういう活動を積極的にしている連中もいました。私はイデオロギー的には共感できる部分も多かったのですが、彼らのヒロイズムが鼻について敢えて反感を持っていました。もともと集団で行動するのが嫌だったのでデモには誘われても参加はしませんでした。そして卒業式の式典が正に始まろうとした時にヘルメットをかぶり、タオルで覆面をしたS君が壇上を占拠して演説を始めたのでした。彼は「ウイシャルオーバーカム」を歌いましたがかなり下手でした。もともとS君はハンドボール部のキャプテンをやっていた人で急に左傾化していったことが私には違和感がありました。大学生の物まねのような彼の演説には説得力もなく、卒業式占拠事件は中途半端に終わり、式自体もなんの感動もなく終了しました。 その後は真っすぐ家に帰るわけはなく、当然のように悪友達と祝杯を上げにいきました。そして酔った勢いでヌードショーを見に行こうという話になったのです。私はいわゆるストリップは見た経験はなく、その方面に明るいH君が案内してくれました。今はもうありませんが十三の名門木川劇場で現在は十三ミュージックと名前を変えて連綿と営業を続けています。古色蒼然とした建物で、中ではオデンや燗酒が売っていて一杯飲みながらショーを鑑賞できるのです。調子に乗って踊り子さんに余計なことを言って注意されたのはご愛嬌ですが、忘れ物をしたのです。卒業証書をストリップ劇場に忘れてきたのです。家に帰って卒業証書を忘れてきたのに気が付き母親に「情けない」と呆れられました。明くる日に木川劇場まで取りに行きましたが、今度は劇場のオッチャンに「にいちゃん、立派な人間になりや」と激励されました。それから30有余年たちましたが立派な人間になったのでしょうか?大学入学まではもう少し時間があります。その話はまた次回ということで・・・・・

安田講堂攻防戦




十三 木川劇場



4月19日(木) 我が半生その21

●高校時代8● 大学生に誘われてバンドを組んでたまにダンスパーティやキャバレーの仕事に行っていました。2泊3日で「合歓の郷」に合宿に行って女風呂を覗きにいったり、ウイスキーをがぶ飲みして悪酔いしたのも今はもう時効でしょう。リーダーのアルトサックスのOさんは同志社だったので「同志社に来て一緒に演ろう」と誘われましたが、私は東京に対する強い憧れがあったのです。実は高校受験で慶応高校を受けて失敗しているのです。受験に行った時のあの素晴らしい三田のキャンパスが忘れられずにいました。慶応は早稲田とならんでジャズの活動も盛んでバンドコンテストの上位入賞の常連でした。学部は何でも良くてとにかく格好いい慶応ボーイに憧れていたのです。親にそのことを言うと「ああ そうか」と中途半端な返事でした。兄が名古屋の愛知学院大学の歯学部の3回生だったので、秋に見学に行きました。愛知学院大学はキャンパスも狭くて、曹洞宗の学校なのでなんか抹香臭い感じがしてお洒落な学園生活からはほど遠い感じがしました。しかし何といっても東京に比べると田舎であの独特の名古屋弁もダサク聞こえいい印象は持たなかったです。愛知学院大学は「名古屋の慶応と呼ばれている」と聞くと「どこがやねん」と大いに反発していました。その頃YAMAHAの「ライトミュージックコンテスト」があって早稲田や慶応のフルバンドが常連で上位入賞していました。愛知学院大学の「シンギングオールスターズ」もその2校と競うくらいの実力があり学生を代表する素晴らしいフルバンドでした。秋のある日テレビで「ライトミュージックコンテスト」を見ていると、それらのフルバンドに混じって愛知学院大学の「ライトパープルジャズテット」というグループが出ていました。そこでフリューゲルホーンを吹いていたのがそれから公私共に現在までお世話になっている信貴勲二さんだったのです。その時信貴さんは「フリーダムジャズダンス」という難曲を格好よく吹いて個人賞ももらい燦然と輝く存在に見えました。 偶然にも信貴さんは大阪出身で、浪人時代ミナミのジャズ喫茶などで兄とは旧知の仲だったのです。兄が「名古屋に来たら信貴と一緒にジャズできるで」の言葉で私の気持ちは大きく名古屋に傾きました。名古屋の慶応と呼ばれていた愛知学院大学歯学部への入学はこうして決まったのです。歯学部へ歯医者の勉強をしに行くというよりもジャズをしに行くというまったく勘違いの動機だったのです。無事入試も終わり名古屋行きが決まったのですが、入学までのエピソードはまた次回ということで・・・・・

愛知学院大学




慶応義塾大学



4月7日(土) 我が半生 その20

●高校時代7● ちゃんとした形でギャラをもらったのはソロピアノでした。師匠の武村さんの紹介で北浜のお店で夏休みに3週間ソロピアノの仕事をしたのです。どなたかのエキストラだったのでしょうね。お店の名前は忘れましたが北浜の証券会社が集まる辺りの上品なレストランです。とはいっても夜の仕事ですから両親は猛反対です。そこで師匠の武村さんと母親と私と三人で下見に行ってそこで試しに2、3曲弾いたのです。テーブルの横に座って水割りを作るお姉さんもいないし、ホテルのラウンジのような所でしたから母親も許してくれました。まだ高校生ということでお店の人も可愛がってくれて、毎晩の賄いの食事も美味しいものをたくさん用意してくれました。その頃のソロピアノのレパートリーは映画音楽やビートルズの曲でメロディとコードネームのだけの譜面で好きなように弾いていました。フランシス・レイの「白い恋人達」や「男と女」、「イエスタディ」や「ミシェル」が定番で喜んでもらえました。 その時もらったギャラで母親にハンカチをプレゼントした記憶があります。 その後は少しずつキャバレーやダンスホールのバンドのエキストラの仕事がくるようになって、親の目を盗んでは夜外出していました。ダンスホールのバンドは譜面の勉強になったし、キャバレーのワンステージ目はジャズを演奏するのでそれは それで面白かったです。YAMAHAのジャズ教室で知り合った大学生に誘われてバンドを組んでバンドでキャバーレーのトラにも行きました。ヌードショーの伴奏もするのですが譜面を見ないで踊り子さんの方へ視線がいくのは当然のことだったですね。勉強はそれこそ低空飛行でした。そしていよいよ大学進学の問題が勃発するのでした。そのことはまた次ということで・・・・

男と女




白い恋人達



3月8日(木) 我が半生 その19

●高校時代6● ピアノを弾いて初めてギャラを貰ったのはラジオ出演ででした。ピアノトリオにフルートを加えたカルテットでその頃の人気番組だった 「MBSヤングタウン」に出演したのです。出演といってもアマチュアバンドが10分程演奏をするコーナーで、ほとんどはフォークかエレキバンド で、高校生のジャズバンドは珍しくオーデションの時に「実力はまだまだやけど、珍しいから出したるわ」とプロデゥーサーに偉そうに言われたのを 覚えています。その時の司会は現上方落語協会会長の桂三枝さんでした。今や大御所ですがあの番組でデビューされて、 それをきっかけにその後テレビにも進出していきました。三枝さんの奥さんは私とは武村さんの教室の同窓生で、彼女も「ヤンタン」に 弾き語りで出演して、それがきっかけで結婚に至ったようです。 演奏したのはミルト・ジャクソンのブルースチューン「バグス・グルーブ」とテゥーツ・シールマンの「ブールゼット」でした。この2曲はその前に あったYAMAHAのジャズ教室の発表会でも演奏して、ゲストの渡辺貞夫さんにお褒めの言葉をいただき嬉しかったです。私がジャズの音楽教室に 通っていることに対して両親はもちろん快くは思ってはいませんでした。 でもこの発表会に父がこっそりと聞きに来てくれていて、思っていたより良かったらしく終了後「皆でご飯でもお食べ」とお小遣いをくれました。 何か認められたようでホッとした気持ちになりました。 このカルテットのバンド名は「タイノーズ」でした。 メンバーそれぞれがYAMAHAの月謝を滞納し続けていたので、師匠の武村さんが「タイノーズでええんとちゃうか」の一言で決まりました。 あの時の月謝はその後も未払いでしたが督促された記憶はありません。鷹揚な時代だったのでしょうね。「ヤンタン」の出演ギャラは交通費程度、 多分一万円もなかったと思います。でも初めて演奏して貰った現金ですから嬉しかったです。その公開収録の時にはバンドのメンバーだけではなくて マネージャーとか応援団とか称して悪友も同行しました。収録後打ち上げをしようということで梅田の安居酒屋へ総勢7人で繰り出しました。 その頃はビールはあまり飲まず日本酒が多かったです。フルートのM君は学校も違って真面目なタイプで、この時初めてお酒を飲むのでした。 ろくに食べもしないで2級酒をあおるわけですから、悪酔いしないわけがありません。M君は完全にダウンしました。一応介抱したものの 方向も違うのでM君は一人で家路につきました。明くる日M君のお母さんから電話があって思い切り文句を言われました。当然のことです。 その頃はジャズというだけで何か不健全で怪しい世界のイメージがありましたから。それからM君はYAMAHA音楽教室には2度と顔を出しませんでした。 今頃M君はどうしてるのでしょうか・・・・・そしていよいよ一人でピアノの仕事に行くようになったのです。それはまた次ということで。

三枝師匠




二級酒



2月17日(土) 我が半生 その18

●高校時代5●今回は音楽生活とは少し離れます。とはいってもその後もいつも付きまとうお酒の話です。我が家は毎週ではないのですが日曜の朝食というか ブランチの時間にビールを飲んでしました。私もご相伴で中3の頃からビールは口にしていて、高校生になってからは日本酒も美味しいと思うように なっていました。我が高津高校は制服を着る必要もなく、そういう店にも簡単に出入りできたのです。上六の近鉄百貨店の辺りには戦後闇市の名残の ような店があって午後から学校をサボって雀荘、パチンコ屋、ビリヤードの帰りに一杯飲みに行ったもんです。正味オヤジか浪人生のような生活です。 お金のないときには酒屋の立ち飲みで二級酒をコップであおり100m程を全力疾走するとすごく早く効いて効率よく酔えました。酔ったあとは 大音量のジャズ喫茶で酔いを醒ましてから家に帰ったもんです。ある時友人のZ君がたまには洋酒を飲もうと提案して怪しげなバーというかスナック に行きました。慣れないカクテルを口当たりがいいもんで飲み続けいざ勘定にになるとお金が足りません。仕方なく一番ものが良かったZ君の時計を 置いて帰りました。あの時計は後どうなったかは覚えていません。一番よく行ったのは千日前の「赤垣屋」でしょうか。 文字どおり立ち飲みでカウンターに立って並んで飲むのです。 あそこの関西風のだしでトロロ昆布が載った湯豆腐は絶品でした。二級酒の首には青い毛糸、一級酒には赤い毛糸がまいてあっていつか赤い方を飲みたいなと思っていました。 「鳥の巣」の串かつも定番でソースのプールは今でも健在です。勘定を誤魔化そうとしてカウンターの中のおばちゃんの隙をみて串を下に落とすの ですが、『にいちゃん、さっき下に落とした分をいれて○○円な〜〜』と言われるのです。さすが年季が入っています。並び合わせた季節労働者の おっちゃんやちょっと怖いお兄さんにもよく奢ってもらいました。酒を飲む生活はそれからずーーっと続いています。今回は音楽の話ではなかったけど それからも音楽とお酒はついて回るのです。次回はそのへんの話からということで・・・・・

立ち飲み




鳥の巣



2月7日(水) 我が半生 その17

●高校時代4 師匠『武村信吾』心斎橋YAMAHAジャズピアノ武村教室の一期生になりました。毎週日曜日の午前に休まないで通っていましたが、月謝は 相変わらずたまに納めるだけで滞納を続けていました。講師の武村さんは私より丁度一回り上の辰年なので、その頃はまだ28,9才だったのでしょう。 子供の頃からクラシックピアノを学び、灘高校から慶應大学に進み、カーメンキャバレロやタンゴのピアノからジャズピアノに目覚めたそうです。 卒業後関西テレビに就職、ベースの宮本直介さんのグループ「プレーイングフォア」に参加、YAMAHA「第一回ライトミュージックコンテスト」に優勝した キャリアで講師になられたそうです。武村さんは慶應の同級生や後輩にジャズピアニストの大野雄二氏や佐藤允彦氏がおられ、その頃まだジャズピアノの 理論書がないときに最新の理論を学んでおられました。ジャズピアノはまず「サウンド」だということで、ハーモーニーやヴォイシングを詳しく丁寧に 徹底的に叩き込まれました。他の一期生は大学の軽音楽部の人やキタ新地でプロとして弾いてる人が多く、唯一の高校生の私はそんな人達にも可愛がって もらいました。その頃「フェンダーローズ」の電気ピアノが日本にも入ってきて、武村さんも早速購入して演奏されていました。マイルス・デイビスの 「マイルスインザスカイ」で聴いたあの音は衝撃的でした。心斎橋YAMAHAの近くにあった「デューク」でライブがある日は私がバンドボーイとして フェンダーの電気ピアノを運んだものです。たまに触らせてもらってハービー・ハンコックやチック・コリアの気分をちょっとだけ味わいました。 私は名古屋の大学に進学し、武村さんも東京に転勤となりその後は疎遠となりましたが、武村さんから教わった「サウンド」はどこでも褒めてもらって その後の音楽生活の大きな糧となりました。大学を卒業して大阪に帰って来てしばらくたつと武村さんも大阪勤務になり再会しました。私が開業してからは 武村さんは私の患者となり、私はたまに武村さんのエキストラでライブハウスでピアノを弾かせていただいたりしました。1989年に武村さんが宮本直介さんと ニューヨークでレーコーディングするのにくっ付いていきました。そのアルバムは「シティブリーズ」でドラムはまだ売り出し中の「ルイス・ナッシュ」 で素晴らしい出来上がりになりました。その中に収められている武村さんのオリジナル曲「MR・BT」はあの名ピアニスト「ボビー・ティモンズ」に捧げられたもので 名曲です。残念ながら我が師匠は2003年5月21日肺癌のため享年63歳で亡くなられましたが、「MR・BT」は師匠を偲んでたまに演奏します。

武村、宮本インNY




MR・BTオリジナル譜面



12月15日(金) わが半生 その16

●高校時代3●楽典は音楽の授業で習ったのと、中学の時ブラスバンドで少し勉強したくらいで、あとはフォークギターのコードくらいしか分かりませんでした。 YAMAHA心斎橋店のジャズ理論教室の先生はその頃大阪での花形ビックバンド「ニューソニックジャズオーケストラ」トランペッターの西尾さんでした。 教室は毎週日曜日の朝にあったのですが、親にはどう言って家を出ていたんでしょうかね。きっと図書館で勉強してくるとか言っていたのでしょう。 月謝は初めは小遣いをやり繰りしてはらっていたのですが、その内滞るようになってきました。一応督促されましたが熱心に通ってくる高校生ということで そのうちにうやむやになってきたようです。先生もお店も鷹揚な時代でした。まず最初は音程やスケールの基礎を学びそのうちコード進行やヴォイシング 等に進んでいきました。今はそういうジャズ理論の教則本は山のようにありますが、その頃はテキストもなく先生が黒板に書くのをただひたすら小さい 五線譜のメモリー帳に書き写すのでした。理論武装はかなりできてきたのですが、それをどうフォークロックバンドに生かすかが問題でした。 友人と三人でのバンドではかなりマニアックな曲に挑戦したのですが、所詮はフォークギターでの編成では限界がありいっそのことジャズを演奏しようと いうことになったのです。それでどんな編成になったかというと、Z君はウッドベースをすでに持っていたのでベース、T君はドラムセットを持っていたので ドラム、そこにセミアコーステックのジャズギターを買ったM君も参加することになったのです。私はMJQのミルト・ジャクソンのヴァイヴが好きだったので ヴィブラフォンでジャズを演奏したくなったのです。もちろんヴァイブは持っていないので調達しなくてはなりません。親が買ってくれるわけもなく、はた と思いついたのが競馬で一山当てて購入するというプランです。YAMAHAの楽器売り場にあった銀色に輝く名門「コッス」のヴァイブラフォンをいつも横目 で見ては溜息をついていました。5千円くらいの投資で2,3十万を得ようとするのですからかなりの大穴でないとだめです。その頃ナンバ大阪球場の一階に 場外馬券売り場があり、悪友のH君とI君と春の天皇賞を買いに行ったのです。オッサンに混じって一端のギャンブラーを気取って本命の「タケシバオー」を外し 大穴狙いにいったのですが、当然のように討ち死にで虎の子の5千円は霧散消滅したのでした。私のできる楽器はあとはピアノしかありません。ジャズピアノは バンドの後ろの方で横を向いて弾いている地味なイメージがあったのであまり乗り気ではなかったのですが、私の担当する楽器はピアノに決まったのです。 私の生涯での初めてのジャズバンドはこうやってスタートしたのです。そして心斎橋YAMAHA にジャズ演奏の教室ができることになり私はそのテストを受けに いったのです。そのテストでは当時流行っていた「アリゲーターブーガルー」というブルース進行の曲を弾きました。ピアノ科の先生は二人いてそういう 曲でバンドをやりたいのならよりジャズっぽい先生がいいだろうと、振り分けられたのが武村信吾さんのクラスだったのです。ジャズピアノだけでなく 人生の師「故 武村信吾」との出会いはこうしたきっかけでした。ベース科は宮本直介さん、ギター科は竹田一彦さんで今もお二人は関西ジャズ界の重鎮と して活躍しておられます。ジャズピアニストの卵がこうして誕生したのです。to be continued・・・・

ミルト・ジャクソン




タケシバオー